Exhibition

SHAPE OF US

  • #開催終了
  • #入場無料

この度、京都精華大学特任講師を務めるやんツーのゼミに所属する、有志の学生9名によるグループ展『SHAPE OF US』を開催します。昨年の『抵抗のレゾナンス』に続き、今年はBnA Alter MuseumとFabCafe Kyotoの2会場にて、9日間にわたり実施致します。

2022.1.21 (金) – 2022.1.29 (土)  UTC+09:00

*FabCafe Kyotoのみ、1/23(日)・24(月) 休館

観覧無料 *座席を使用される場合はカフェメニューのご注文をお願いいたします。

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開催終了

新型コロナウィルス感染症拡大防止の観点から、ご参加に際しては下記をお願いしております。
ご協力のほど、何卒よろしくお願いいたします。

・マスクをご着用のうえご参加ください。
・ご来館時、館内洗面所での手洗いをお願いいたします。
・お住まいの地域の自治体から、外出や移動に関する自粛の呼びかけが出ている場合は参加をご遠慮ください。
・体調がすぐれない場合は参加をご遠慮ください。
・政府および京都府・京都市から中止の要請を受けた場合、開催を中止する場合が生じます。

ステートメント

文明開化の時代に夏目漱石はイギリスで英文学を学んだ。しかし、日本と全く異なる文化背景で育まれたその本質を自国で理解させることは難しいと感じ、広めることに疑問を抱いた。その葛藤から漱石は、「他」をそのまま取り入れたり否定したりするのではなく、「他」と自分を同時に尊敬することの重要性を主張した。西洋の利己的な個人主義に、利他の観点を取り入れた「道義上の個人主義」という概念である。それから一世紀以上経ち、発達したインターネット社会やコロナウイルスの流行により世界の仕組みが大きく変化した昨今。SNSの表面上の数字に翻弄されたり、行動制限による物理的コミュニケーションの減少の影響で、自分も他人も深く理解することが困難な状況である。

本展で展示されるのは、問題意識を持ち各々の現在地として自らの形を模索し続け制作された作品である。その姿勢はニューノーマルな現代に、個の維持と外部との接続を図ることの重要性を訴えるものであり、漱石が唱えた個人主義と共鳴する。漱石の個人主義にも似た、自分を見失わずに社会と手をつなぎたいという切実な願いを「SHAPE OF US」という言葉に込めた本展覧会、是非ご鑑賞ください。

開催概要

会期:2022年1月21日(金)〜1月29日(土)
会場:BnA Alter Museum / FabCafe Kyoto
住所:京都府京都市下京区天満町267−1 / 京都府京都市下京区本塩竈町554
時間:BnA Alter Museum 11:00〜20:00 / FabCafe Kyoto 11:00〜19:00
休館日:2022年1月23, 24日(FabCafe Kyotoのみ)
入場料:無料
出展作家:井入俊昭、加藤千恵子、小谷野航平、小山佳奈、ninado、平岡真生、向井彩夏、山口和真、吉田優夏

主催:BnA Alter Museum、FabCafe Kyoto
協力:京都精華大学デザイン学部デザイン学部ビジュアルデザイン学科

参加作家/出展作品

井入俊昭 IIRI Toshiaki《THE ZEN》

精神を研ぎ澄ませ、己を見つめ直し、心の落ち着かせる。。。落ち着かせる?いや、こんな環境じゃ落ち着けない!座禅とVR技術を組み合わせて味合うバーチャル座禅体験。
COVID-19により、私たちの生活は強制的な変化を強いられた。例えば、外出自粛によって多くのストレスがもたらされてこの社会を包んだ。一方で、コロナ禍ではバーチャルなコミュニケーションが急速に普及し、別のどこかへ誘う空間的なVR体験は人々の自粛生活のストレスを緩和した。しかし、私はVR体験においてもなお行動を制限する座禅コンテンツを制作し、VRの特性である空間を自由に動き回る操作を制限する。そして、この体験で精神統一やコロナ禍のストレス問題を再認識することが可能か、逆説検証を試みた。
先端技術であるVRはバーチャル環境への没入を可能にして、寺の一室に身を置く体験を実現した。また、センシング技術を組み合わせ実際に警策で叩かれるインタラクションを導入し、よりリアルな体験を実現。これにより、質の高い疑似座禅体験ができる。
パラドキシカルな体験であなたは何を感じますか?


加藤千恵子 KATO Chieko《ベッドには、こわれたおまじない》

甘くて少し毒々しい、映像と絵画からなるインスタレーション。
SNSが普及した現代において、常々感じられる肥大化した承認欲求。
自分をよりよく見せたい。他人より沢山いいねが欲しい。拡散されたい。
しかし、思い返してみるとはじめから人間はこうだったのだろうか。
いつから画面の中のハートに固執するようになったのだろう。少女の頃、ベッドの上はわたしの空想世界だった。お人形は生きている。おふとんは空を飛んで、きっとわたしはずっと少女のままだ。わたしだけのおまじない。
年を重ねるにつれ、おまじないには亀裂が入り、どす黒いものが混じりはじめる。隣のクラスのあの娘がうらやましくなり、ベッドの上にある宝物たちは輝きを失った。可愛い顔。わたしは可愛くない顔。白い肌。わたしは浅黒い肌。美しい髪の毛。わたしはボサボサの髪の毛。いつしか画面の中のハートにしか価値を見いだせなくなった。ベッドのすきまには、ホコリをかぶってころがったお人形やおもちゃたち。
これは、わたしだけの話なのだろうか?


小谷野航平 KOYANO Kohei《BORL》

BOYとGIRLを合わせてできた造語、BORL。
女はスカート男はズボン、女はヒールを履いて男は履かない、というように世間はまだまだ「女」か「男」というたった2種類のラベルで分け、「普通」であることを強要してくるように感じる。そのようなことを踊っている時や無意識の中で咲いている花が堂々と立っている姿を見た時は忘れさせてくれ、心から性別など関係ないと思わせてくれる。そういう想いをBORLという造語に込めて、ズボンとスカートを縫い合わせた自作のキャンバスに無意識下のスプレーによるドローイングで表現した。
無意識の中に咲いている花が自分を表現しようとおどっている。
それこそありのままの自分であり、BORLである。


小山佳奈 KOYAMA Kana《人と自然の関わりについて》

私たちが暮らす地球は、環境に関連する様々な問題や課題を抱えており、それらはすべて私たちの生活と密接に関わっている。その実体験として、私が生まれ育った地域にはスキー場があり、私はそこでスキー客によるゴミの投棄を目にしてきた。このような実態を知ってほしいという想いから、環境と私たちの生活の関わりを影を使用して表現した。この投棄されたゴミにスポットライトを当て、人や建物を連想させるような影を映し出している。人の影はゴミを捨てた一人の人間の利己を表しており、建物の影は利己の集合体である人間社会を表している。一人の人間が何気なく捨てる小さなゴミも、集まれば大きなゴミとなるということ。この他の場面ではどのようなゴミが投棄されているか注目してみてほしい。


ninado《Affected Reality》

ビデオゲームにおけるアクションとリアクションの関係は、他者とのコミュニケーションにおける影響、被影響の関係と似ている。言葉が他人の判断に影響を与えたり自身の行動の基準になるように、自身の入力という行為がゲームやキャラクターを動かしている。他者と影響し合うことは人の本質的行為であり、無意識的に行われる日常動作である。この作品では模倣と追従の本能をVRHMDにあてはめ、被影響下における行動としてウェルテル効果に着目した。HMDがプレイの結果受け取った情報に触発され、プレイヤーの入力から逸脱し後追い自殺を起こすことで見えていなかったHMDという主体を強引にあぶりだす。影響する、されることを体験を通して捉え、自己を動かす他者の存在を認識させることを目指した。


平岡真生 HIRAOKA Mao《真っ白な嘘にくちづけを》

「わたし」という一個人のアイデンティティを守る為の対立する二面性に抵抗も服従もできない曖昧な立場のシンクロニシティを目指したインスタレーションである。
階段という場所はA地点からB地点に行く為の手段でしかない為、常に上下の運動が激しく行われており、その場で立ち止まることは許されない人混みの中にいるように思えた。二項対立の片方に決断できない曖昧な自身を階段の機能に投影した作品を通して、階段の昇り降りを繰り返し無駄な時間を過ごすことで無意識下で既成概念の構築に関与してしまっている事象に気づかされるのではないだろうか。
男性か女性の二者択一を迫られどちらかに決定することが重要視される中で、どちらでもないと言った曖昧化することが許されない現在の社会が本当のわたしを見失う原因となっているのではないだろうか。男性、女性と言う言葉自体に秘められた既成概念と化された大きな力に囚われており、その前では皆沈黙する。沈黙の中で了承されてはいけない事象や考えがあることを理解しているがそこから抜け出そうとはしない。再び隠された場所になってしまわない為にも制作した。わたしを見失わないように、抵抗も服従もできない無力なわたしと共に一つである為に。


向井彩夏 MUKAI Ayana《Stranger》

自己とは、自分以外のもの〈他者〉との接触から生まれる境界線により初めて認識出来るものである。その境界線は他者と出会う度更新されるため、自己と他者は独立した存在ではなく絶えず相互作用し続ける関係にある。
本作ではそうした「自己と他者」をテーマに、鑑賞者が多様な視点で新たな自己認識を生み出すことを目指し、写真と詩を用いて制作を行った。写真は撮り下ろさず以前撮影していたものの中から、さらに日常的なモチーフを選ぶことで、「過去」や「普段影響を感じにくいもの」という、一般的に意識しにくい他者に重きを置いている。詩はその補完として用い、写真と詩が単体作品の場合にはない様々な視点の創造を図っている。
芸術が不要不急とされた2020年5月。ドイツのメルケル首相は演説で、アーティストと観客間に新たな視点を生むものとして文化芸術の重要性を訴えた。しかし、もはやアート分野に限らず、他に制限された人や風景などとの起こりうる全ての出会いが新しい視点をもたらすと考える。


山口和真 YAMAGUCHI Kazuma《オワラナイアソビ》

ずっと遊んでいたいという思いを誰もが持っているはずなのに人々は隠しながら生きている。
急速に変化する時代の中で、その思いはかき消されぼんやりとした日常が積み重なって行く。ただ流されていく日常の中に溶け込んで、色や輪郭が曖昧になった風景たち。そんな風景の中に潜む普段意識することのない造形にあえて触れてみる。ぼんやりとした日常の向こうには、私たちの知らない不着さやミステリアスさといったワクワク感のある形が限りなく存在していた。そしてそこで触れた形を自由に発想していき繋げていく。見たことのないビジュアルが現れ存在感を放ち出す。これらを“オワラナイアソビ”と題しグラフィックアートとして表現した。
終わることのない新しい世界を体感して欲しい。


吉田優夏 YOSHIDA Yuuka《水平線を探して》

小さなウィルスによって私達の生活は強制的に変化した。その中で変わったのは生活様式だけではなく、SDGsや日本の夫婦別姓問題など、ジェンダーや愛の形についてへの意識も変わっている。それは今までにないスピードで新しくなる世界で変わっていくという事への抵抗が薄れてきたからではないかと考えた。
流動的な世界と共に変わっていく愛の形、その愛の強かさ、変動性を水に喩え書いた詩集を個々のエピソードに合わせてメディアを変えて表現した。本来ビジュアルアーツを補完する為に使われることば達をあえて主役にし、メディアをことばの補完として使っている。色々な人の実体験を元に、あえて細かい表現を使わない詩を書き、読んだ人の今までの経験などで想像される詩の背景が変わるように制作。
この詩を読んだひとりひとりがこの詩に新しい意味と物語を生み出してくれる事を願っている。

Information

日時

2022.1.21 (金) – 2022.1.29 (土) *FabCafe Kyotoのみ、1/23(日)・24(月) 休館 UTC+09:00

参加費

観覧無料 *座席を使用される場合はカフェメニューのご注文をお願いいたします。

開催終了

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