Event Report

町の未来へエールを送る!大関屋旅館女将ちよ子さん

10月26日の夜。FabCafe Hidaでは、ゲストと集まった皆さんとでお酒を片手にゆる〜く語らう集いの場「語りBar」を開催しました。
今回のゲストは 飛騨古川弐之町で大関屋旅館を営んでいらっしゃる女将・上ヶ平 ちよ子さん。そして聞き手は同じ弐之町出身の都竹淳也飛騨市長です。
ちよ子さんが見てきた過去から現在にいたる弐之町通りの風景、これからの古川の町に対する想いを語らう会。当日の様子をFabCafe堀之内がレポートします。

 


語りBarとは?

この企画は、ゲストと集まった皆さんとでお酒を片手にゆる〜く語らう、集いの場として 夜のFabCafe Hidaで定期的に開催しています。意外に知らない飛騨古川の歴史や、面白い活動、暮らしなど、いつもとは違った場で、それぞれが何に関心を寄せ、どんな生活をして、どんな未来をイメージしているのか、共有し刺激し合うことで、何かを生み出すキッカケにできれば…という思いで2017年よりスタート。今年度からはより地域住民の方や飛騨に縁ある人が集まり交流する場を目指しています。

都竹市長と語りBar

今回の語りBarでは、飛騨市長にゲストを選出していただき、また聞き手となっておばあちゃんからの言葉に寄り添い、そして魅力を引き出していただきました。市長のおかげで飛騨市民の皆さんにもご参加いただきました。

 


 

飛騨古川のアイドル・大関屋旅館の女将さん

 

大関屋旅館 女将 上ヶ平 ちよ子 さん

JR飛騨古川駅から徒歩10分、FabCafe Hidaの2軒隣にある昔からのお宿・大関屋旅館。
ちよ子さんは御年95歳、笑顔の素敵な飛騨古川のアイドルです。


 

ちよ子さんの生い立ちから見る飛騨の風景

ちよ子さんは、はじめにご自身の生い立ちを話してくれました。

女将 大正13年(1924)生まれ。国府でたばこ屋の娘でした。兄弟が11人いて、私10人目です。兄弟の内、5人が男で5人とも兵隊に行って帰ってきています。生まれた時、私より上に19歳と20歳の姉が2人いたのですが、薬がなかったので若くして亡くなってしまいました。女の子が私ひとりだけだったので、親にはとても可愛がって育てられていたので、「お嫁にくれるのがかなしかったんやと。」と言われました。

 

夜汽車と庭師

女将 お嫁に来たのは23歳の時。21歳の昭和20年(1945年)が終戦の年です。それまでは、高等科を卒業して(17歳)で、御縁があって愛知県一宮市の片倉製糸工場に行きました。片倉製糸で人事の仕事を6年勤めました。その後どんどん戦争が激しくなります。埼玉県大宮にある軍事工場/研究所に女工として勤めました。そこには東京の立川に近い、中島航空機というところから指導者がみえたのを覚えています。その途中で色々あって、「母が危篤になったから」とうそをついて夜汽車に乗って帰ってきました。会社の人からは「危篤やから荷物は持たせん」と言われました。その会社には庭師がいて、その庭師にお金を払うと荷物を送ってくれたんです。庭師は喜んでお金をもらって、送ってくれました。

 

20代のちよ子さんの思い出と戦争の影

女将 大宮から帰ってきた21歳の時、昭和20年(1945年)高山市にあった名古屋合板という木の飛行機の材料を作る会社で勤めました。神岡鉱山に勤めないかという話もあったのですけれど、母は私に怖い思いをさせたくなかったみたいです。当時はうちにいる娘はどこかにやるようにすることが多かったのです。
この年、四角いピンクの紙空からまかれて、富山を爆撃してから次は高山の番。終戦やっぱり悲しかったですね。私は終戦と同時にぴたっと仕事をやめました。

それからは、兄が私を気にかけて、これからはお仕事をするより、習い物をしておくと役に立つからと、高山に花道や茶道を教わりに通いました。

みんな前のめりでお話を聞きます


女将
 高等科の時に兄が持っていたABCと書いた下敷きを持っていたら先生がだめだといって取り上げられたのを覚えています。私も古川にお嫁に来て長いことたってから、Aとか覚えたものです。
戦中は、着物を着ていると引っ張っていき注意する憲兵がいました。「標準服(もんぺ)を着ろ」と言われました。

語りBarに参加してくれたご近所の鮎飛さんからは、当時の授業では、徴兵されて飛行機に乗った時のために遠心力を養う訓練で、校舎に鉢状の穴が掘ってあり、穴の底に落ちないようになるだけ速く穴の縁の方を走って回ったんだというお話も。飛行機の羽のように、手を広げて走るように先生から言われたんだそうです。

 

当時の様子を再現しながら語る鮎飛さん。 鮎飛さんは飛騨市観光大使や飛騨の語り部として活動しています。

ゼロからの女将修行

 

女将 宿ってどんな事をするのか十分に知らずに嫁に来たんです。もちろん、商売のこともなんにもわからんかったんです。だから、最初に女将さんに「敷きなさい」と言われて、てっきり自分が座る座布団を敷いて座りなさいという意味だと思ったら、お客様のお布団を敷きにいきなさいという意味だったんです。

もともと2階は12部屋ありました。時代の波に乗ろうと昭和40年頃に、部屋数を少なくしてお庭を大きくしました。でも今になってみると12部屋の掃除や布団敷きは大変でした。
お食事も昔は全部客室に運びましたので苦労したものです。お食事のご飯を丼にふわっと盛るのも難しかったです。
(写真は創業当時の大関屋(大正元年)。写真一番左は初代常次郎さんと一緒に立っている男の子が子どもの頃のちよ子さんの旦那様。)

「FabCafe Hida」の建物・旧熊崎邸の旦那様とのつながり

ちよ子さんは、大関屋さんの2軒隣のFabCafe Hidaの建物・旧熊崎邸の熊崎さんとの思い出も話してくれました。

FabCafe Hidaとして利用される前の熊崎邸

女将 熊崎さんは、この町の大地主の方で、こんな広い建物をもっていらっしゃるくらいですから、もちろん敷居が高い方だったのだけれども、旦那様には仲良くしていただいていました。
例えば、克己さん(熊崎邸の旦那さん)が小さい頃、「大関屋さんのご飯がいい」「ご飯貸してくれ」と言われ、奥様が取りに来てくださったり。克己さんが大きくなってパン工場に勤めていた頃には「おばちゃん持ってきたよ」とパンをくださいました。
また、私が着付ける着物は本当に楽だと言ってくださって、わざわざ私のとこまで来て着物を着付けるようお願いしてくださったのもうれしかったですね。
熊崎さんの蔵の中のコレクションから紫陽花のランプをいただいたこともあって、今も大切に自室に使わせていただいています。
本当に仲良くさせていただいたんですよ。

 

以前の大関屋はビジネスホテルだった?

女将 今と比べて1930-40年代は飛騨古川の町はとても賑やかでした。店がたくさんあって、常に人で賑わって、今みたいにコンビニやスーパーもないし、人が町のお店に行き交っていました。
青年団がその時代のいろんなことを考えて、盆踊りや寸劇なんかをしていたね。町の一人ひとりとの付き合いがみんなあったんです。

市長 大関屋にはどこのお客さんが多くいらっしゃったのですか?

女将 当時は商人が町に自ら品物や技術をもって売りにくる時代でした。戦後は、富山から薬屋さんが来られました。置き薬の交換や真綿を売る人が多かったです。蚕さんの関係や製糸業で働きに行く途中で泊まられる女の人も多かったですね。

市長 今で言うビジネスホテルなんですね。

女将 昭和30年代には、大きな工業の団体様や古川病院ができた時も、その関係者の方が多く泊まりに来てくださいましたね。

「飛騨はひとつ。みんな仲良く。」

今もそうかもしれませんが、高山からお客様をもらうことが多かったです。
昔は旅館と旅館との間にも人行き来が多くありましたから、私もお世話になった高山の旅館の方にはよく、ちょっとしたものを持って礼に行くことが多くありました。

今は古川は飛騨市になって、高山は高山市になって少し距離を感じることがありますが、こっちが良いあっちが悪いと言うようなことは意味がないと思っていて、同じ飛騨としてひとつになっていかんと。人間は仲良くしていかなきゃいかんと思うんです。弐之町はなおのこと、この町にも今も高山市国府町から来た人がたくさんいますし、商売で考えると、お客をとられたとったとかではなくて今も昔も変わらず仲良くしていけたらなと思うんです。

市長 ほんとそうですね。

「足るを知る」

女将 茶道の世界では「足るを知る」という言葉があります。いつも私は幸せな一生だなと思っています。昔から見ると今はこの通りも寂れたと言われることがありますが、毎年夏にはサッカーの子どもたちがいっぱい来てくれるんです。お客様にできるだけのことはしようといつも思っています。商売ってありがたいのよ。入れ替わりたちかわりいろんな人が来てくれて、本当にありがたいことだと思います。

女将 寂れた寂れたというけれど、日本全国どこも同じだと思うんです。これからは子どもさんも少ないし、人口が減ります。学校を出て東京で就職し、奥さんもよその人と一緒になることもあります。子どもはみんな東京の方にいるし、国全体がそういうふうになってしまいました。そんな中、来てくださるお客様が飛騨古川をほめていかれます。気力を出してみんなが助け合っていこうと、自分はこれで十分だと思っていきましょう。それから少しずつできる限りがんばっていきましょう。健康が第一ですよ。


1時間半ノンストップで話きったちよ子さんに参加者の方からあたたかい拍手が沸き起こりました。

最後はみんなが手を差し出して、階段を降りるおばぁちゃん。
記念撮影をして、「おやすみなさい」のご挨拶。ちよ子さんの生き様を通して見る歴史の話、そして心あたたまる未来へのエールをありがとうございました。


 

会を終えて〜都竹市長のコメント

最初は人前で話したことないしと心配しておられたのですが、始まると同時にエンジン全開。そのお話がとっても楽しく、面白く、何よりとても感動しました。
国府町広瀬で生まれ育ったことから、戦前、愛知の製糸工場や関東に仕事に行かれた話、飛騨に戻ってくる時のドラマ、戦時中高山の軍事用木製飛行機の工場に勤められていたこと、大関屋に嫁いでこられてからのこと、泊まり客のこと、弐之町の賑わいのことなど、本当に多彩なお話でした。記憶も極めて正確でびっくりです。
人口が減っていくこと、若い人が都市へ出ていくのは全国どこも同じだとサラッと言われたのですが、この認識を持っておいでなのはすごいことで、その上で、「足るを知る」ことが大事だと力説されたのは感動でした。
また、昔から高山と古川はお客さんをやりとりしたり、交流があったり、深いつながりを持ってきたことに触れられつつ、飛騨全体が仲良くやっていけるようにしてほしいと、これは私へのお願いとしておっしゃいました。
会自体もうちで話しているような雰囲気で、近所の方々も参加され、途中で会話に加わるように話をしていただいたりしたのも、とてもよかったです。
約1時間半余、本当にステキな時間を過ごさせてもらいました。ちよ子おばちゃん、ありがとうございました。

 


まとめ

以前から、FabCafe Hidaスタッフは朝の挨拶や休憩時にお話をしてくださるちよ子さんのお話をもっといろんな人に聞いていただきたいと思っていました。
今回はこの町の近隣の方以外にも、高山、富山、そして名古屋からも「語りBar」に参加していただきました。おばあちゃんと語る機会を持つことができて、夢がかなったようなひとときでした。

「古川も高山も、飛騨はひとつだよ。仲ようなせんといかんよ。足るを知る。自分は充分幸せだと思うことが大事だよ。古川の町は寂れたっていうけど、それはどこも一緒。古川は素敵なところだよ。みんな仲良く元気でやってけば、何も心配いらないんだよ」
という言葉を集まった皆さんに最後の方で語りかけた時、笑顔で頷くみなさんの姿が印象的でした。ご近所さんも多く参加してくださったのも本当に嬉しく、おばあちゃんのおっしゃるように助け合って古川の町を盛り上げていきたいという気持ちが強くなりました。

実際に家族からも聞くことができない飛騨の話を聞くことができて、
我々も負けないくらい、より日々がワクワクするようなことを考えやってみること。
そして今日もFabCafe Hidaに来てくださるみなさんに幸せだと過ごしていただけるよう頑張ります。

ちよ子おばあちゃん、都竹市長、参加してくださったみなさまありがとうございました。

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