Event report

2020.10.18

音楽史の中で育まれた価値観、ループする音楽はいかにして生まれたのか

これからのリベラルな音楽のためのアカデミー #1 「これまでの音楽」レポート

FabCafe編集部

Tokyo

8月25日、FabCafe Tokyo MTRLをスタジオとして、オンライン配信にてALMF「これからのリベラルな音楽のためのアカデミー #1 これまでの音楽」が開催されました。ゲストの一人目は、主にクラシック音楽領域で音楽ライターとして活動される小室敬幸氏。ゲストの二人目は、サックス奏者または文筆家としてジャズの領域で活動されている大谷能生氏。

「クラシック音楽」や「音楽理論」というと、難しいイメージを持つ方も多いと思います。あるいは小学校からの義務教育の中で、「音楽」に苦手意識を持ってしまった方も一定数いるのではないでしょうか?そんな「音楽」の歴史を改めて紐解き、私たちはいまどんな風に音楽を学ぶべきなのか、またコンピューターを使うことで開ける新たな音楽の聴き方や学び方についてディスカッションする、というのが今回のイベントです。

「多様における統一」という価値観 – 小室氏キーノート

小室氏のキーノートでは「音楽史、クラシック音楽とは何か?」「クラシック音楽という概念がいつどのように生まれたのか?」「そこから現代音楽がどのように生まれたのか?」「ミニマル・ミュージックに代表される反復音楽が音楽史をどのように変えうるか?」「新しい音楽を生み出し、その価値を提示するために、音楽史を学ぶことが役立つ」というお話をいただきました。

まず飛び出したのは「音楽史は書き(読み)換えることができる」というお話。現在、日本で主流とされているのはドイツ及びアングロサクソン系の音楽史であり、ほとんどの音楽大学ではこの音楽史に準じる歴史観を学ぶことになります。しかし、音楽史は編纂されるものであり、必ずその歴史を書いた時代や人の価値観が反映されていることを鑑みれば、時代や著者によって書き換えることが可能であり、そうあるべきものではないかと問題提起します。

本来「クラシック音楽 classical music」には、「一般の愛好家にとっては馴染みやすくないが、識者が高く評価しており、聴いてみたいという憧れを抱く音楽」というニュアンスが込められています。この価値観を更に推し進めたのが「多様における統一」「能動的な解釈」という考え方で、聴覚だけでは認知の難しい構造をもたせたり、分かりやすさを避けたりすることが推奨される空気感が醸成されてゆきます。例えば、J.S.バッハがとりわけビックネームとして扱われるのは、その「多様における統一」が徹底された作曲家だったからといいます。

「多様における統一」「能動的な解釈」を突き詰めていった先に「現代音楽 contemporary classical music」と呼ばれる分野が生まれますが、ポピュラリティを敵視していたため、早々に閉塞感がみえてきてしまいます。この袋小路に風穴をあけたのがミニマル・ミュージックに由来する「反復」です。ミニマルの代表的作曲家であるスティーヴ・ライヒは、統一された素材を反復するなかから多様な音楽が生まれることを体現。表層的にはシンプルであるにもかかわらず、実際には複雑であるという意味で「統一における多様」とでも呼ぶべき、新しい価値観を提示します。

ミニマル(=もととなる素材の少なさ)であることで現代音楽としても評価されていたミニマル・ミュージックですが、徐々にミニマルであることをやめ、反復に基調をおく音楽が生まれ、それらは「ポスト・ミニマル」「インディ・クラシック」「ポスト・クラシカル」などと様々な名前で呼ばれるようになり、ポピュラー音楽ジャンルを接合していくことになります。このことは、後の大谷さんのキーノートにも続きます。

新しい音楽が評価される際には、過去の音楽とどのように繋がっているのかを歴史上に位置づける必要性があります。だからこそ、これから私たち自身が音楽を作ったり、何が新しさであるかを考えていく際に、音楽史を学ぶことがひとつの道標になりそうなことが分かりました。

デジタルが可能にする「音を聴くという経験」 – 大谷氏キーノート

まず大谷氏が触れたのは、音楽の読み書きの記号体系としてまとめられたクラシック音楽と、その発展した形で現れてきたアメリカ実験音楽です。同じ譜面であっても、演奏されるときの音は異なるということが提示されたのが、20世紀後半の実験音楽でした。「音を聴くという経験」が音楽を考える上で大事になってくるといいます。

ここで大谷氏は、「Theodor W. Adorno: Kompositionen」※1 をCDJでかけながら、再生速度を遅くしたり、ループさせたりしながら、何がここから聞こえてくるのか?を実演して見せてくれます。再生された音源をよく聞くことで、実際には音がずれていたり、歪んでいたり、音源を直接編集することで様々な発見ができます。

20世紀のブラックミュージックのカルチャーが、「ループされた進まない時間の中にいた方が楽しい」という価値観を強く植え付けたのだといいます。同じ音源を何度も繰り返し再生していると、本来持っている音楽的意味(エクリチュール)とはまた異なる意味がそこに見出せます。その異なる意味を見出すプロセスこそが、自らの新しい音楽の動機になり得ます。

このように音源を基本として音楽を構築すると、譜面で書いていた時とはまた違った作曲方法が考えられます。譜面で書く音楽と音源を編集して作る音楽、この二つをどのように組み合わせていくか、そこが課題となるのではないか、と大谷氏はいいます。今はコンピューターを使って、編集した音源をまた譜面にとるということができるため、それをまた編集すれば様々な可能性が広がります。

音楽と記録するメディアという観点から言うと、テキストで記述された譜面もビットデータとしての音源も地続きに考えることができますが、譜面で記録された音楽が再生するのに訓練を必要とするのに対し、オーディオデータの再生、編集、聴くという行為は訓練を必要としません。このことは音楽を学ぶよりよい方法を広げる可能性を持っています。

※1 哲学者Theodor W. Adorno は、アルバン・ベルクに師事した現代音楽の作曲家でもあり、評論家としてはメディアを利用した文化産業に徹底して批判的だったことで知られている。ゆえに、楽譜として書かれている音楽が基本であり、演奏されることよりも読み書きできる音楽の展開が正しい音楽であるということを主張していた。そういう思想をもつ作曲家による作品の録音を、あえて音源編集の題材に使うという、大谷氏のセレクト。

クロストーク – 音楽教育と現代の音楽制作のギャップ

藤田:学校の音楽教育と音源を使って作曲することにギャップがある、という話をはじめに大谷さんにお声がけした時にしたと思うのですが、実際にどういうギャップがあると思われますか?

大谷:自我が芽生え始めた子供にとって、体系がしっかりある音楽のやり方に入り込むことは苦痛を伴う。それは文字を学ぶことも似ているが、なぜか音楽は逃げ道があるのでそこでドロップアウトしてしまう人がいるのはわかる。思春期になって自分の好きな音楽を見つけたり、そこでまた音楽に戻ってくる人も多い。そこをもう少し今日私が話たような内容と繋げながら、うまく教えられたらいいのになと思っています。

大和:先ほど大谷さんに実演していただいた、自分でこうここには空白が必要だっていう開け方というのは、音楽でいう小節のようなグリットに縛られてないと思います。

大谷:実際にはビットの粒度でのグリッドがあってそこには乗っているわけですが、あまりに細かすぎるので、自分の感覚もあまり意識しない方に合っていっているというのはあると思います。それぞれのメディアに分解能があり、MIDIは80年代のコンピュータースペックで取り合え使える最小の分解能で作られていますが、2000年代に入ってもっと細かいオーディオデータなどで取り扱うことができるようになりました。そうなってくると、数値などをあまり気にせずに直接編集できるようになったというのが変わってきたことだと思いますね。

藤田:分割という話で、譜面の音楽でも十二平均律やピアノの鍵盤など、クラシック音楽の中でデザインされている分割があると思うのですが、私は学校の音楽の授業が嫌いで、昔は白鍵や黒鍵を見るのもいやでした。社会人になってから勉強し直してみると、実はオクターブが12分割されていて、白鍵も黒鍵も半音できれいにつながっている。そこから音楽の理論にとても興味が湧きました。

小室:中学・高校の先生になる音楽大学の卒業生すべてが、在学中に音楽教育の専門教育を充分に受けているとは言い難く、ましてや音楽制作についてしっかりとした知識を持っているとはいえません。だから、どうしても演奏・歌唱・鑑賞が音楽の義務教育の中心になってしまい、型にはめるような音楽教育になってしまうことが多いのではないでしょうか。

もちろん、クラシック音楽側でもそういう授業に対する批判の声は大きく、近年は譜面にとらわれずに音楽を演奏する楽しさを伝えるワークショップを取り入れよう、という動きも盛んになっているので、音楽教育が変化していく可能性もあります。
また別の角度からいえば、現代音楽のクセナキスのようにクラシック音楽を作曲する伝統的なレッスンを受けていても、その中では才能を発揮できなかったケースもあります。彼はメシアンに出会い、彼がバックグラウンドとしてもっていた数学や建築の知識をもとに作曲をしてみてはどうかと助言。これがきっかけとなり、音楽史に名を残すような作曲家にまで成長したわけです。

藤田:デジタルファブリケーション文脈の中で、コンピューターと教育について、このような言葉があります。

ハッカーたちは、システムや世界についての本質的な学びは、対象をバラバラに分解、その動きを観察、そこで得た知識を使ってさらに新しくておもしろいものを想像することにある、と信じている。(Steven Levy, 2010)

音楽も同じようにバラバラにして、自分なりに咀嚼し、自分の言葉で語れるようになるということが必要なのではないでしょうか?

大和:コンピューターを使うっていうと、プログラムを書くっていうイメージになりがちですが、大谷さんに実演いただいたように、デジタルの解像度を使ってバラバラにしていくというのは有効な手段なのではないかと思います。

大谷:デジタルデータを使うことの強みは沢山あるのですが、本質的には、対象から距離をとるやり方がいろいろあるんだということが、コンピューターのスペックが上がるとはっきりわかってくると思います。音源から何らかのパターンを見出したり、音の現象の基盤となっている倍音について学ぶと、自分の声も倍音でできているということが感じられたり、具体的な音楽から少し距離をとって考えることができると思います。昔はこれを再現するとどうなるか?ということは演奏する技術がないとできなかったわけですが、今は音源を鳴らしながら考えることができますね。

小室:実はある時期までライヒは演奏する人を実際に集めて、試演しながら作曲していたそうなんですね。代表作となる「18人の音楽家のための音楽」もそうだったはずです。しかし、あるタイミングでコンピューターを導入して、ディスプレイ上で楽譜を打ち込みながら作るようになったんですね。楽譜を前提とした音楽ではあることは変わらないのですが、生の試演かコンピューターの打ち込みかのプロセスの違いによって、生まれてくる音楽は明らかに変わってきますね。

大和:最後にお二人から、コミュニティで音楽を学んだり作っていくときに、何が大事かということについてアドバイスはありますか?

小室:最近話題になっている米津玄師さんのアルバム『STRAY SHEEP』では、現代音楽の文脈に位置する作曲家の坂東祐大さんがコラボレーションしていて、紛うことなきJ-POPでありながら、バックのオーケストラで現代音楽のようなサウンドが展開されていたりしています。エンタメと芸術の相互乗り入れがしやすい状況になってきているので、とても良い時代だと思います。様々な音楽ジャンルに関心を持つほど、アイディアは広がりますし、現在の音楽文化は後世から見た時に、豊かな時代であると映るんではないでしょうか。

大谷:いわゆる音楽史の中では、200年かけて様々な音楽の読み書きの手法が試されてきています。この歴史の中にある手法は、今音楽のことを考える時にも、そうじゃないクリエイティブ分野にも(あるいはスポーツでも)とても有効です。何か制作の中で不安になることがあったら参照してみると、自分も大丈夫だなと思えることもあります。なのでALMFでやろうとしている場づくりというのは、とてもよい機会だと思います。

まとめ

今回、小室敬幸氏、大谷能生氏のお二人をお迎えしてお送りしたALMF「これからのリベラルな音楽のためのアカデミー #1 これまでの音楽」。改めて音楽史を学ぶことで自身の音楽を客観的に見ることが出来る視点を得たり、音を聴くという経験から音楽を考えていくことが出来る、ということがわかりました。本イベントは、第2回:「音楽と(楽器としての)ハードウェア」、第3回:「音楽とAI」、第4回:「これからの音楽」と続く予定です。ぜひ楽しみにしていてください。

また来年には本格的にコミュニティを始動し、SchoolやLabとして運営していきます。ALMFの詳細はこちらをご覧ください。
https://fabcafe.com/jp/labs/tokyo/almf_lab/

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