Event report
2019.7.29
吉澤 瑠美
私たちの五感には「視覚、聴覚、触覚、嗅覚、味覚」がありますが、香りを感じ取る「嗅覚」の領域は、視覚に比べ1/5も解明されていないといわれています。FabCafe では体験のデザインの未踏領域である嗅覚に焦点を当て、「嗅覚デザイン」の可能性を探求するOLFACTORY DESIGN LAB(嗅覚デザインラボ)を企画。国際的な嗅覚アーティスト・上田麻希さんとのコラボレーションにより新たな嗅覚体験を生み出す実験を継続的に行っています。2019年7月5日、FabCafe MTRLを会場に第3回が開催されました。
今回のテーマは「Yearning for a Nostalgic Scent(懐かしい香りへの憧憬)」。原体験やルーツに結びつく「個人的な香水」をつくるワークショップと、香りのプロフェッショナルによるクロストークの二部構成で開催しました。どちらのイベントにも嗅覚体験や香りに関心をもつ参加者が多く集まり、香りにまつわる考察と議論は大いに盛り上がりました。
文=吉澤瑠美
“フェティシズム”を抽出する、自分だけの香水づくりワークショップ
第一部は「匂いのフェティシズム」。フェティシズムの観点から嗅覚に対する視野や理解を広げる試みとして、一般的に評価されにくいフェチ的な匂いを香水にするワークショップを行いました。
参加者は嗅覚アートの第一人者として海外の大学で教鞭も執る上田麻希さん指導のもと、チンキ法と呼ばれる原始的な抽出法に挑戦。参加者は、事前に古書やスポーツウェア、でんぷん糊などつい嗅いでしまう好きな匂いのもとを持ち寄るように指示があり、持ってきたものをアルコールに浸すことで匂いを抽出しました。
匂いの抽出はおおむね成功した様子。完成した香水を何度も繰り返し嗅いだり、他の参加者に嗅がせて感想を聞いてみたり、さまざまな形で匂いを楽しんでいました。中には「ひとに言えない」匂いを抽出する方もあり、隠語を使って「No.3」と表現していました。匂いには嗜好が強く表れるとともに、非常にパーソナルなものでもあるようです。
クロストーク「失われた香りを求めて」
第二部は「失われた香りを求めて」と題した、香りを操るプロフェッショナル2名によるクロストークです。引き続き上田さんに登壇いただき、パートナーとして『匂いのエロティシズム』や『匂いの身体論』などの著書をもつ鈴木隆さんをお招きし、匂いとフェチシズムの関係について議論しました。
上田さんは第一部を振り返るとともに「嗅覚アート」の現在地についてプレゼンテーション。嗅覚アートは、日本ではまだ聞き慣れない言葉ですが、ヨーロッパではアートのひとつとして認知されつつあるそうです。今後拡大していく領域のひとつとして注目を集めており、アワードが開催されているほか、オランダの大学で教える傍ら、通信教育で「フレグランスアートコース」の講座も開設しています。
今回のワークショップは、上田さんが大学で授業の一環として行っているもので、一般向けに実施されるのは非常に稀なこと。日本では初めての試みでした。参加者と上田さんの間で事前に2、3回メールのやり取りを行い、今回の手法で抽出できる素材を検討しました。
ここで上田さんは「香りは、ものから分離した途端に認識が揺らいでしまう」と課題を提起。香りの元を見ず、解説文を読まずに香りを嗅ぐと何の香りかさっぱり分からなくなってしまうのです。たとえば、日本人に馴染み深い味噌汁を蒸留して抽出した透明な液体も、オランダ人が嗅ぐと「洪水で地下室の柱が腐った匂いだ」と言われてしまうことも。
「ひとつの匂いについてこれだけ解釈の違いがあるのであれば、作家として匂いに思いを込めることは非常に心もとないと思った」と上田さんは語りました。
香料会社に勤務しながら香りの文化史を研究する鈴木さんは、上田さんのプレゼンテーションを引き継ぐかたちで香りの意味付けと認識を別の角度から考察しました。
プルースト効果という言葉をご存じでしょうか。匂いを嗅いだときに、その匂いに紐づく過去の記憶が蘇る現象のことです。マルセル・プルーストの長編小説『失われた時を求めて』の一節で、主人公が紅茶に浸したマドレーヌを口に入れた時に感じた得体の知れない感覚を紐解き、記憶が蘇るというシーンに由来しています。
調香師という職業は、いろいろな物質を混ぜ合わせて香りを作っていく仕事です。「個々の香りが持つ意味や役割を認識すると、匂いに対して好き嫌いがなくなってくる」と鈴木さんは言います。「赤が好きな人も、青が嫌いな人もいますが、信号の赤が嫌いという人はいません。それは信号における赤の意味が分かっているから。私たちは、社会の中のルールに基づいて色を認識することがあります」(鈴木さん)。
一方で、社会的に形成された「匂い」の意味付けというものはないのでしょうか。鈴木さんは、信号における赤青黄のような情報のルールよりも絶対的なルールが匂いにはあるのではないか、と問いかけました。色には「好きな色/嫌いな色」はありますが「悪い色」というものはありません。しかし匂いには「悪臭」というものが存在します。「善悪という絶対的なルールが暗黙のうちに匂いに対する認識を支配している」(鈴木さん)というのです。
私たちが感じている色というものは、言葉や名前によって認識されています。匂いに対する言葉が社会的な「悪臭/芳香」の二分法に支配されているとすると、そこから漏れ落ちたものは存在しないものとみなされてしまいます。けれど今回のワークショップでは「何だか分からないけれど」ちょうど気持ち良さに訴えかけてくる個人的な匂いの存在を認識することができました。「”匂いの二分法に対する異議申し立て”と言うことができるかもしれない」と鈴木さんはワークショップを振り返ります。
「失われた香りを求めて」、そこで失われたものとは何だったのか。それは社会のルールによってないものにされてきた匂いの好み、あるいは好みの匂いなのではないか、と語り鈴木さんのプレゼンテーションは締めくくられました。
無意識下でたしかに作用する”匂い”の力。改めて問う、「匂いとは何か」
それぞれのプレゼンテーションを受け、後半はモデレーターとしてFabCafe MTRLの小原が加わってお話を伺いました。
──黄金比のように、絶対的な香りというものはあるのでしょうか。
鈴木:音の世界にはハイレゾというものがありますね。本来人間には聞こえないとされている音が加わることによって可聴域の音が良くなるというものですが、香料の世界でも同じようなことが昔からあります。そのものに匂いはないが、他の匂いと一緒になると加わっているほうがより良い匂いになる、というものが存在するんです。嗅覚は「匂いがしている」という意識があるわけだけれども、意識がない匂いというもの、匂いとして感じている以外のものもキャッチしているのかもしれない。嗅覚と脳との複雑なレベルの分解には未だ至っていないが、匂いとして意識されていない匂いの力のようななものが今後解明されてくるのではないかと思っています。
──日本人が共通して認識する匂い、のようなものは存在しますか?
鈴木:ある世代はトイレの芳香剤に金木犀の匂いがついているために、金木犀の匂いを嗅ぐとトイレを連想してしまう。ワークショップでゴムバルーンの匂いを抽出してノスタルジーを感じる方があったけれど、そもそもは石油系、ラバー系の匂いなわけで。個人的な体験の積み重ねがその人の嗜好を作っていくのだと思うと、個人史を「匂い」で描いていくとその人のことが深く分かるんじゃないかとも思いますね。
──ワークショップで抽出された香りの中で、気になったもの、面白かったことはありますか?
上田:私はかなり多くの実験をしてきたのでだいたいの匂いは経験があるんですが、今回初めてだったのは「マッチの芯」かな。これはできるかな、というのが謎だったんです。マッチの芯というのはどこを言っているのか。マッチを燃やす香りは私も好きですが、あれはどの瞬間の香りを好きと感じているのだろう、と。
上田:また、今回はいろいろな事前相談をしました。洗濯物のパリッとした匂いという相談もあったんですが、あの匂いの正体は実は「乾燥」なんです。匂いではなく湿度を感じ取っている。逆に洗濯物のモワッとした匂いというのも細菌が活動している匂いなので、アルコールに浸すと活動を殺してしまって抽出できないんです。私たちはただ単に化学変化だけでなく湿度や気温、状況も含めたすごく広い現象を「匂い」と呼んでいるのだと気付かざるを得なかったですね。
鈴木:各々の好きな物から匂いを抽出したわけですが、その物から離れて香りを抽出したときに、匂いを自分の手にした感覚があったのではないかと思います。何かに付属したものではなく匂いそのものを捉えたというのは特殊な体験だったのではないかと。
鈴木:それと、ふと思ったのは、お金の匂いをやれば良かったなと思いました。できますよね?10円玉だったら。金属って揮発しないと臭うことはないじゃないですか。お金はなぜ匂いがするか分かりますか?人間が触っている皮質やいろいろなものが金属に付いて、そこに微生物が作用して匂いが発生しているんです。基本的にお金が匂いを出しているわけではないけれど、匂いがするというのはそういうことです。でもアルコールだと難しいかな。
上田:案としては挙がっていて、たぶん熱をかければ抽出できるんじゃないかなという勘がありました。ただ十分な10円玉が集められない、という話だったので残念ながら実現しなかったのですが、いつかやりたいですね。
嗅覚の領域はまだまだ仲間が少ないというのが実情です。このラボがコミュニティとなり、活動が活性化するきっかけとなればという上田さんの思いから、最後は質疑応答だけでなく参加者が普段取り組んでいるプロジェクトの紹介なども行われました。香りをキーにした地域創生、視覚デザインと香りの関係、香りでアプローチする空間デザイン、嗅覚体験をデザインするIoTプロダクトなど興味深いプロジェクトに携わる方が多く参加していることが分かり、終演後も登壇者だけでなく参加者間で交流を図る姿が印象的でした。
OLFACTORY DESIGN LAB(嗅覚デザインラボ)は今後も継続的に活動していきます。ご興味のある方はぜひ今後の活動にもご注目ください。
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吉澤 瑠美
1984年生まれ、千葉県出身。千葉大学文学部卒業。約10年間Webマーケティングに携わった後、人の話を聞くことと文字を書くことへの偏愛が高じてライターになる。職人、工場、アーティストなどものづくりに携わる人へのインタビューを多く手掛けている。末っ子長女、あだ名は「おちけん」。川が好き。
1984年生まれ、千葉県出身。千葉大学文学部卒業。約10年間Webマーケティングに携わった後、人の話を聞くことと文字を書くことへの偏愛が高じてライターになる。職人、工場、アーティストなどものづくりに携わる人へのインタビューを多く手掛けている。末っ子長女、あだ名は「おちけん」。川が好き。