Event report
2023.1.8
FabCafe Nagoya 編集部
レポート構成・執筆:奥村綾乃(清須市はるひ美術館) テキスト監修:桂川大+山川陸
写真:中村まゆ(ToLoLo studio) 動画:小濱史雄(IAMAS)
【10.2】「ドクメンタ15」をめぐるラウンドテーブル
本イベントは、日本建築学会オンラインマガジン「建築討論」連載「会場を構成する—経験的思考のプラクティス」を執筆する桂川大と山川陸による企画である。建築家の視点で「ドクメンタ15」を取材した二人からの報告を基点として、国内外のアートシーンに関わるゲストによる考察を交え、参加者とともに芸術祭や地域活動の在り方について考える場を設けた。
なお本レポートは、当日オーディエンスとして参加した筆者がアーカイブ映像を見直し、内容を再構成している。実際に話された順序やニュアンスとずれる部分もあるが、イベントの主意を簡潔にまとめることに努めた。
イベント当日の配布資料
登壇者
Collectivity
まず、桂川・山川が執筆する「会場を構成する—経験的思考のプラクティス」とは、展覧会をはじめとするアート行為が展開される場を建築的視座から考察する連載企画である。本企画のための取材として二人が訪れた「ドクメンタ15」について、7月末の5日間の滞在記録と関係者へのインタビューをもとに報告がなされた。
ドクメンタとは、ドイツ・カッセル市で5年に一度開催される国際芸術祭である。ナチスによる表現弾圧への反省を背景として1955年に始まり、以来国際的なアートシーンにおいて強い影響力をもつ。15回目の今回、芸術監督に選ばれたのがインドネシアで活動するコレクティブ、ルアンルパだ。アジア圏からの選出は今回が初めてとなる。
ルアンルパがドクメンタのテーマに掲げたのは「ルンブン(Lumbung)」。共同の米倉や倉庫といった意味だが、各人がもつ資源や考えを持ち寄り共有する精神を示している。「Make friends, Not art」というモットーに集約されるように、彼らが仲間たちと集い、のんびりとおしゃべりをしたりくつろいで食事をしたりすること(「ノンクロン(Nongkrong)」)を活動のベースに据えるのは、スハルト独裁政権下に自由な集会すら禁じられた状況を経験しているためでもある。
Area Maintenance
メンバーの一人であるアーキテクトのイスワントによれば、まず過去の展示会場が見直されたという。これまでフルダ川の西側を中心に会場が展開されていたが、今回は工業地域である川の東側も組み込まれた。第2次大戦で大規模に破壊されたのち、戦後のモータリゼーションによって新たに形成されたエリアで、会場づくりにおいてはカッセルの歴史をよりあらわす地域として着目したそうだ。
中央駅からフリデリチアヌム美術館周辺のメインエリアには、都市になじむよう開催前から設置された交流スペースのルルハウス、キッズスペース、教育プログラムスペース、アーティストのレジデンススペース、屋外のソーシャルキッチンなど、展示とは異なる機能をもつ場が多くつくられているのが特徴である。
川の西側にはホワイトキューブ的な見せ方もできる文化施設が複数ある一方で、東側は古い工場やさびれた教会など既存の使われていない空間が会場となった。対照的な様相を呈していたものの、それぞれのエリア・空間のキャラクターに応じてアーティストたちが空間づくりをおこなっていた。
Ekosistem、Venue for Living Room
また参加作家にコレクティブが多いこともあり、もはや正確な数は把握しきれないというアーティストたちは「マジェリス(Majelis)」という小さなグループに分かれ、それぞれが気軽なコミュニケーションをとりながらアイデアを共有することで関わり合っていた。トップダウンによる管理体制ではなく、いわばアーティストたちの自治組織によるセルフマネジメントとでも言えよう。
ルアンルパは一過性のイベントとしての芸術祭を超えた持続可能性も見据える。展示に使われる資材のリサイクルといった物理的な取り組みから、作品展示というよりも日々変化する制作の場そのものを見せるような設え、リビングルームのような居心地の良い空間、カッセルという地域やアーティストたちにとって何が残るかといった概念的な試みにいたるまで、一貫してドクメンタに関わる人々と場に持続的にはたらきかけるシステムを構築している。集約と分配という「ルンブン」の循環機能が、芸術祭全体に張り巡らされているのだ。
本拠地ジャカルタでの多岐にわたる活動をそのままドクメンタでも応用したルアンルパを、欧米メディアの多くは酷評した。その理由として「キュレーションがされていない」「作品がない」「心を動かすクオリティではない」といったことが挙げられている。以前からルアンルパと親交がありドクメンタ15にも足を運んでいるキュレーターの飯田志保子は、従来の欧米中心的なアート観から語られるこういった言説を強く批判し、ルアンルパがこれまでのドクメンタにない新しい価値観をもたらしたことこそを評価する。
同じくルアンルパとのプロジェクトを経験する服部浩之も、多様化する価値観のなかで「アートとは何か」「作品とは何か」という概念を社会実験的に提示したといえるルアンルパの姿勢を読み取れていないのではないか、とメディアのネガティブな評に疑問を呈した。
ラウンドテーブルでは、飯田・服部のほか、ドクメンタでのプロジェクトやリサーチに関わりカッセルに長く滞在したアーティストの加藤康司も参加。前半に引き続き、浅野翔がオーディエンスからの質問や発言を拾い上げながら進行した。
アーキテクトの位置
ドクメンタ15では、会場づくりにおいて前述のイスワントが専門性を有していたものの、カタログなどにアーキテクトとしてのクレジットはない。ディレクションするというよりかは、それぞれの作家たちの希望を汲み取ってアイデアを広げていくような調整役として存在していたようだ。参加作家のなかにはアーキテクトやインストーラーメンバーがいるコレクティブもあり、それぞれが持ちうるノウハウを共有しながらイスワントらスタッフがサポートする体制が整えられていた。
一方で、現地を訪れた飯田は、それぞれの地区の特性に合わせた会場において、什器のデザインやサインなどのナビゲーションシステムはきちんとディレクションされていたことに注目。作家それぞれの自主性を尊重しながらもひとつの芸術祭としての一貫したイメージが形成されていたことがうかがえる。
何を残すか
あいちトリエンナーレ2010、2013、2016のアーキテクトで、2016ではルル学校を含む長者町の堀田商事ビルを担当した武藤隆によれば、ルル学校に関して「何もしなくてよかった」という。武藤もディレクターというよりもアーティストやキュレーターが求める空間をどのように準備するかという黒子的思考でアーキテクトを務めていたが、ルアンルパは新たな什器や資材を購入したりアーキテクトの手を借りることすらなく、ありものや借り物を自ら手配し、手作りで会場をつくりあげた。
これはルアンルパの掲げる「エコシステム」の具体例のひとつと言えよう。今回のドクメンタで、ルアンルパはあらかじめ作家たちに、展示に使う資材の会期終了後の扱いまで計画してほしいと伝えたという。彼らの取り組みは、昨今とりわけ話題となっている美術展にともなう廃棄物の問題に一石を投じることにもなるだろう。
また作家が活動を維持するための経済面にも目を向け、オンライン上で参加アーティストの作品を売買できるシステム(ルンブン・ギャラリー)を構築。既存のアートマーケットに回収されない形で作品の収益化が取り組まれた。
物理的な面だけでなく、ルアンルパの活動そのものが地域社会での持続可能性をベースに考えられているのは言うまでもない。ドクメンタの参加アーティストにもその姿勢は敷衍され、普段それぞれの作家がおこなっている活動をカッセルという地でどのように展開するか、さらにそこで何を残していくかということが問われたことだろう。
ルアンルパのメンバーの何人かはドクメンタ開催前からカッセルに移り住み、地域コミュニティと積極的に関わっている。街行く人々が作家たちと気軽に語り合い、「今回のドクメンタ、よかったよ」と口に出して伝えている光景を見た飯田は、相互のフラットな信頼関係が築かれていることにも言及した。これまでのドクメンタとはまったく異なる様相やアートのあり方が刺激となって、新たな活動に取り組み始めた地元民もいるのだという。
芸術祭の枠組みを超えて持続できるシステムやコミュニティを形成することを、ルアンルパはソフトウェアのインストールに例えていたと飯田から紹介された。彼らはドクメンタという機会を通して導入された新しい考え方や仕組みを、誰もが継続的に活用できたりそれぞれ使いやすいように改変できたりすることが重要と考える。
フェアな関係性
開催ごとに選定される芸術監督は、ドクメンタから招かれるゲストという立場である。さらにその芸術監督がアーティストを選定し招待するわけだが、今回のドクメンタではルアンルパが「ドクメンタを招待しかえす」という印象的な言葉を残している。加藤から紹介されたように、参加作家のなかにはレジデンスを運営する者などもいて、ゲストであるアーティストたちが自らカッセルの地に「ホーム」をつくったり、ホストとゲストが逆転したりするような試みも見られた。
ヨーロッパの権威ある芸術祭がアジア人(参加作家はグローバルサウス出身が多い)を招へいするという構図自体、ポストコロニアリズム的思考から逃れることは難しい。状況を十分に承知しているルアンルパはその関係性を内側から脱臼させ徹底して水平化していった。マジェリスの組織体系にも明らかだが、ルアンルパと参加作家たちの関係性も同様に対等であり、さらに来場者に対しても必要以上のサービスや監視制限はない。
会場や浅野から、個々の裁量に委ねることによるキュレーション不全の懸念も問われたが、そこで服部から提示されたのは「誰に対してどのような態度をとるか」という視座である。シェアキッチンやオリジナルカラオケ、くつろいだ鑑賞空間は限りなくオープンで日常的、ともすれば混沌としたイメージと映るかもしれない。が、山川が実際に体感したのは、居心地の良さは作品に真摯に向き合うために用意された環境であって、単なる「おもてなし」ではないということだ。
あいちトリエンナーレ2016でのルル学校が長者町という限られた地域の人々に向けられていたように、ルアンルパはあくまでローカルにコミットすることを重視している。ドクメンタのような大規模国際展においてはとくに、短期間滞在するアートファンの観光客と長く地元に住む人々とでは捉え方に大きな差異があるだろう。万人にアピールするのではなく、むしろターゲットを明確に示しその範囲で可能な限りアプローチする姿勢は一見排他的だが非常に誠実でもある。作家に対しても来場者に対しても信頼がなければ成り立たないし、問題が起きればそのたびにネゴシエーションしていくほうがフェアで倫理的だ。
「会場を構成する」とは
展覧の場を体系的に整えることについての言説はいまだ多くない。会場構成、空間構成、会場デザインなど呼び方もさまざまだ。服部は「会場を構成する」という言葉にそもそも違和感があるという。今回ルアンルパがドクメンタでおこなったのは、特定の場所を一定期間設えて会場にするだけではなく、日常の延長上で生活と創造行為を結び付けて現実をより良くする活動だったと振り返る。とくに、日本各地の芸術祭でも欠かせない要素となっているいわゆる「まちなか会場」は、すでにそこにある機能や歴史と向き合い、空間と作品を結び付けたり遊離させたりともはや「構成」という言葉では表しきれない。
実際に美術館での会場構成を手掛ける桂川は、ドクメンタにおける作品やキュレーションに対する空間の柔軟でおおらかな関わり方を実感し、「会場」や「構成」という言葉を捉え直す契機になったという。今回のラウンドテーブルと連載企画から、会場構成に関する議論が深まることを期待したい。
浅野|
「ドクメンタ15」をめぐるラウンドテーブルでは、世界最大である現代美術の祭典「ドクメンタ15」の会場構成を手がかりに、アートコレクティブと利害関係者らや、アート作品とマーケットの関わり方に批評的な立場をとった芸術監督「ルアンルパ」が描く他者との関わり方を登壇者らと議論をおこなうことになった。
イベントのきっかけとなった桂川・山川による現地のレポート[*1]からは、ドイツ・カッセルの展示会場をまるで大らかなリビングのような会場構成や、テーマソングのKARAOKEや小さなコミュニティスペースなど誰もが対等に関わり合うことができるよう環境が設けられているように感じた。他者との関わりの中に創造性を見出すルアンルパの試みは、過去のあいちトリエンナーレでも実践されているとキュレーターとして参加していたゲストの服部や飯田からも紹介があった。芸術祭における脱植民地的な試みは報道では驚きを持って受け止められたようだが、参加アーティストや地域住民からは一定のレベルで受け入れられたように感じられた。
2022年10月10日に国際芸術祭「あいち2022」が閉幕を迎えてはや2ヶ月が経過した。私が活動拠点とする有松では、芸術祭が閉幕してしまえばこれまでのように地域住民とわずかな観光客が訪れる日常へと戻るだろうと話をしていた。ところが、宮田明日鹿の活動をきっかけに立ち上がった「有松手芸部」の存続や、新型コロナウイルスの水際対策が緩和されたことと円安が影響したインバウンド市場にわずかな復調が見られるなど、開催前に想定していたよりも多様な人びとが有松を訪れている。
現在[*2]もなお裁判が続く「あいちトリエンナーレ」における「表現の不自由展」の影響によって、有松が開催地に名を連ねることに賛否両論があったことは否めない。展示会場となる有松絞りの工場や商店など、会場を貸し出す所有者の不安は計り知れないものだったろう。しかし、閉幕後も継続した活動やポジティブな影響が見られるように、実際に有松を何度も訪れて作品制作をおこなった宮田やAKI INOMATAをはじめとした参加アーティストや、県職員やボランティアスタッフなどの存在は大きい。
藤田直哉はまちづくり文脈における芸術祭の乱立と参加者のやりがい搾取構造を「地域アート[*3]」で批判してから数年が経過したが、格差の拡大が引き起こす社会の分断はますます大きくなっている。だからこそ芸術祭を契機に誰とどのような未来を選択し、どのように社会実装をしていくことができるかグランドヴィジョンを思索する機会が重要になっている。新型コロナウイルスによって人との関わりや街場の賑わいが縮小した今日だからこそ、触発された地域住民の活動や、経済的な課題は抱えているものの継続する地域との関わりに芸術祭の可能性を改めて見出したい。起こりうる未来をもっと具体的に体験する装置としての芸術祭として。
[*1]桂川・山川らのドクメンタ15の滞在記は建築討論の連載『会場を構成する──経験的思考のプラクティス(その4)/滞在記:「ドクメンタ15」』をご覧いただきたい。
[*2] 2022年12月23日現在、愛知県が名古屋市に負担金の残額を支払うよう求めた訴訟は、名古屋地方裁判所の一審での判決を支持し、二審でも市側の控訴を棄却している。しかし名古屋市長は引き続き、上告の姿勢を崩していない。
桂川|
今回、ご来場いただいたみなさまと議論を共有できてとてもありがたい機会でした。ありがとうございました。この取材、記録、議論を経て我々は何を受け取れば良いのでしょうか。イベントの最後にドクメンタの現場で投げかけられた「続けること=keep on doing」について議論がありましたが、ルアンルパやそれに関わるチームは20年以上をかけて「表現を自治する場」を醸成してきました。日本でここ愛知で何が持続できるかは正直いうとまだ分かっていません。
その後、MATで開催されたインドネシア現代美術を専門としている研究者/作家の廣田緑さんの講義[*1]に参加しました。その中で、自身の現地での経験をもとにした惹きつけられるインドネシア近代美術史講義の後に現在のルアンルパ前後の実践についても話題となりました。「知恵」を共有し芸術に関わる人材を育てる循環がGud Skulにあり、それは当時の美術教育において非常に重要な位置であったと言います。
愛知でももっと美術や建築に関わるインディペンデントな学校や講義を受ける機会があって良いように思います。あいトリ2016での「ルル学校」[*2]、MATのようなまち一体のアート拠点や大ナゴヤ大学が長く活動する中、もっと人材の循環や成長を意識した取り組みがあって良い。それを支える行政や企業からの助成体制も必要です。インディペンデントな「学び」のコレクティブと関わる機会も増えてきた筆者にとっては切実な課題です。そのノウハウがもっとシェアされ、愛知や周縁の文化拠点の醸成が進むよう、私も長い目線でパーパスを持ち、「keep on doing, what you’re doing」 について考え続け、色々なフィールドで関わり続けたいと思います。
[*1] Minatomachi Art Table, Nagoya [MAT, Nagoya] でのトークイベント
トーク「協働と共生のネットワーク —廣田緑さんとインドネシアについてお話しする」
[*2] あいちトリエンナーレ2016でのルアンルパによる出展作品
ルル学校
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