Event report
2021.12.7
市川 慧 / Kei Ichikawa
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秋庭史典
名古屋大学大学院情報学研究科 准教授
名古屋大学大学院情報学研究科准教授。専門は美学・芸術学。博士(文学)。著書に『絵の幸福—シタラトモアキ論』(みすず書房 2020年)、『あたらしい美学をつくる』(みすず書房 2011年)。分担執筆に『美学の事典』(丸善 2020年)、『人工知能学大事典』(共立出版 2017年)。共著に『食(メシ)の記号論』(日本記号学会編, 新曜社 2020年)、『人工知能美学芸術展 記録集』(人工知能美学芸術研究会, 2019年)など。訳書にリチャード・シュスターマン『ポピュラー芸術の美学—プラグマティズムの立場から』(勁草書房 1999年)などがある。
名古屋大学大学院情報学研究科准教授。専門は美学・芸術学。博士(文学)。著書に『絵の幸福—シタラトモアキ論』(みすず書房 2020年)、『あたらしい美学をつくる』(みすず書房 2011年)。分担執筆に『美学の事典』(丸善 2020年)、『人工知能学大事典』(共立出版 2017年)。共著に『食(メシ)の記号論』(日本記号学会編, 新曜社 2020年)、『人工知能美学芸術展 記録集』(人工知能美学芸術研究会, 2019年)など。訳書にリチャード・シュスターマン『ポピュラー芸術の美学—プラグマティズムの立場から』(勁草書房 1999年)などがある。
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伊村靖子
情報科学芸術大学院大学[IAMAS] 准教授
国立新美術館アソシエイトフェローを経て、2016年より現職。近年は、美術とデザインの関係史に関心を持つ。共編に『虚像の時代 東野芳明美術批評選』(河出書房新社、2013年)。論文に「「色彩と空間」展から大阪万博まで──六〇年代美術とデザインの接地面」(『美術フォーラム21』第30号、2014年)など。関わった展覧会に「美術と印刷物──1960-70年代を中心に」展(東京国立近代美術館、2014年)、岐阜おおがきビエンナーレ2019「メディア技術がもたらす公共圏」(IAMAS)など。
国立新美術館アソシエイトフェローを経て、2016年より現職。近年は、美術とデザインの関係史に関心を持つ。共編に『虚像の時代 東野芳明美術批評選』(河出書房新社、2013年)。論文に「「色彩と空間」展から大阪万博まで──六〇年代美術とデザインの接地面」(『美術フォーラム21』第30号、2014年)など。関わった展覧会に「美術と印刷物──1960-70年代を中心に」展(東京国立近代美術館、2014年)、岐阜おおがきビエンナーレ2019「メディア技術がもたらす公共圏」(IAMAS)など。
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加藤 明洋
drawCircle合同会社代表取締役,スタートバーン株式会社/エンジニア
情報科学芸術大学院大学(IAMAS)メディア表現専攻修士課程修了。ブロックチェーン技術の適用された社会の可能性と課題を、ボードゲームを通じて描いた修士作品/研究は、CREATIVE HACK AWARD 2018 SONY 特別賞をはじめ、各方面からの評価を得る。スタートバーン株式会社でエンジニアとして従事する傍、個人・周辺パートナーと連携し複数のプロジェクトを進めていくために、2019年drawCircle合同会社を設立。現在に至る。CV
情報科学芸術大学院大学(IAMAS)メディア表現専攻修士課程修了。ブロックチェーン技術の適用された社会の可能性と課題を、ボードゲームを通じて描いた修士作品/研究は、CREATIVE HACK AWARD 2018 SONY 特別賞をはじめ、各方面からの評価を得る。スタートバーン株式会社でエンジニアとして従事する傍、個人・周辺パートナーと連携し複数のプロジェクトを進めていくために、2019年drawCircle合同会社を設立。現在に至る。CV
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松井茂
情報科学芸術大学院大学[IAMAS] 准教授
詩人、情報科学芸術大学院大学[IAMAS]准教授。著書に『虚像培養芸術論 アートとテレビジョンの想像力』(フィルムアート社、2021年)。詩集に『二●二●』(engine books、2020年)等。共編に『虚像の時代 東野芳明美術批評選』(河出書房新社、2013年)等。共著に『テレビ・ドキュメンタリーを創った人々』(NHK出版、2016年)等。キュレーションに「磯崎新12×5=60」(ワタリウム美術館、2014年)、「磯崎新の謎」(大分市美術館、2019年)等。
http://purepoem.daa.jp/
詩人、情報科学芸術大学院大学[IAMAS]准教授。著書に『虚像培養芸術論 アートとテレビジョンの想像力』(フィルムアート社、2021年)。詩集に『二●二●』(engine books、2020年)等。共編に『虚像の時代 東野芳明美術批評選』(河出書房新社、2013年)等。共著に『テレビ・ドキュメンタリーを創った人々』(NHK出版、2016年)等。キュレーションに「磯崎新12×5=60」(ワタリウム美術館、2014年)、「磯崎新の謎」(大分市美術館、2019年)等。
http://purepoem.daa.jp/
NFTから美学への接続
秋庭先生のプレゼンののちに、ディスカッションの初めでは伊村先生より、このイベントの初めに立てた問いをもとに、お話していただきました。伊村先生からは秋庭先生のプレゼンを引用しつつ、所有に関する話題やNFTの登場によって指摘されている美学観はNFTの登場以前から存在するのではないかという指摘など、後のディスカッションにつながる重要なキーワードが提示されました。
この伊村先生の議論では、NFTが議題にあげられる際に話題に挙げられる所有と美術作品の関係性について考えさせられるようなキーワードが多分に含まれていました。特に「コピーできることが当たり前の昨今にオリジナリティを持つことの意味を改めて考えるきっかけになるのではないか」という質問に対して、「NFTはオリジナリティの意味合いよりも、所有の概念の再考につながるのではないか?」と、私達の考え方が変容していく可能性を示されました。また「所有と共有、それから個人と共同体など分断されて存在しているものを二項対立的に考えるのではなく、いかに分断から多様な価値観を考えられるのか。というインターネット誕生以降に生まれた大きな流れの中にNFTも存在するだろうか?」という問いも投げかけられ、このようないくつものパラレルな並行世界の概念は後の加藤さんの作品に関する会場からの質問や、松井先生のDJ的な作品の循環にも繋がっていく話となりました。
作品のDJ的循環
伊村先生から解説をいただいた後に松井先生にもプレゼンをしていただきました。
NFTアートが過去に対し時系列的な解釈を通してどれだけの影響を与えられるのかという視点をもとに話が展開されました。
初めにデュシャンのアフタヌーン・インタビューズからの引用を用い、絵というものは作家個人だけの力で完成するものではなく、鑑賞者との相互作用によって出来上がるというものだということを改めて強調された上で、秋庭先生、伊村先生のお話にも上がったポストインターネットの話からアプロプリエーションへと話題は展開します。ここでは、ポール・ミラー※のデュシャンの再解釈を例に挙げ、「DJカルチャー的な芸術作品の展開をNFTは組み込むことができるのか?」という問いかけがありました。DJは自ら音楽を制作するのではなくさまざまな音楽を選択し、それをリミックスすることで一つの作品を制作します。このDJ的な作品のあり方はデュシャンのいう選択から成り立つアートのあり方であり、今あるNFTアート作品のバリエーションを見ていてもそういった性質は多分にあると指摘されました。
NFTは作品の流通の記録が全て残る歴史書のようなものとなっています。DJ的な作品の循環とは過去の作品について読者が解釈を加えていくことで時代ごとに作品を改変していくことです。このようにある種過去の作品との対話によって成り立つ芸術の連続的な再解釈によって、作品のあり方は時代とその鑑賞者が残したものによって多様になります。このような作品の多様なあり方をNFTは受容できるだろうか?というような議題も議論の焦点になりました。
現代において、ゼロ年代から始まった芸術以外にも広がったDJ的な社会改変のあり方は停滞している、というような懸念があるなかでNFTがそのような今の社会のあり方にいかに影響を与えられるのか注意深くみていく必要があると語られました。
※ Paul D. MILLER a.k.a DJ Spooky (ポール・ミラー) http://djspooky.com/
NFTは所有を助長するか?
次に、会場から寄せられたNFTは所有を助長するか?といった質問に答えていく形で各登壇者にご意見を伺いました。
この質問の初めで加藤さんは鑑賞者の評価の記録を正確に残していけることが、NFTは所有を保証することよりも重要性があるのではないかと投げかけます。確かに、先の#1のレポートでも述べていたNFTとは複製を禁じるものだという見解とはやや趣が異なります。NFTは流通の記録を残すことで、永遠に個人が所有すること以上に、作品を受け渡していくことに力点が置かれているものです。こういった「みんなで所有し、みんなで受け継いでいく」というNFTの思想は、秋庭先生も言うようにオープンソースカルチャーをよく引き継いだものであるといえます。伊村先生からも時間軸に対してコメントすると言う作品はモノを中心とした美術史の発想とは異なるシーンであり、芸術に新しい可能性を与えられるのではないかというコメントがあり、NFTによって今まで公にされていなかった、作品に関わる多くの人々に光を当てられるのではないかという示唆を示されました。
Trustlessな社会
次に、加藤さんの作品であるTRUSTLESS LIFEに関してブロックチェーン技術による相互監視社会はディストピアを産むのではないかと危惧する質問がありました。
ブロックチェーン技術によるものではないにしろ、現在も人々はSNSなどにより日常的に相互評価され、ある種失敗が許されないと感じられる環境が生成されやすい状態にあります。ウェブ上に残された評価を完全に削除することはほぼ不可能で、一度ついたある店への星1の評価は基本的に10年経っても消えることはありません。中国のような個人の評価制度による社会設計は全体的なサービスの向上を成し遂げたものの、多様な意見の公開を妨げる社会を生み出しています。
ブロックチェーン技術の悪用の懸念に対し、加藤さんは決してそのようなディストピアを想定して作品を制作したのではなく、オルタナティブな世界としての社会設計を目指すためにTRUSTLESS LIFEを制作したといいます。
この話題に関しては以前収録した加藤さんとのポッドキャストでも述べられていましたが、加藤さんによれば、TRUSTLESS LIFEは政府や会社のような大きなもの(プラットフォーム)によって強制的に管理される私たちの世界で、一方的に管理されるのではなく、自分たち自身で自分たちをコントロールするためことを目指したものです。例えば、仮想通貨の世界において私たちはビットコインが気に入らなければイーサリアムにプラットフォームを乗り換えることができます。このように私たちを管理するプラットフォームを自由に選べるような社会、信頼するもの、人を自ら選ぶことができるような環境があってもいいのではないかという問いかけるために制作をし、監視されるかもしれないにせよそれを許すかどうかを自ら選択できるような社会の提言なのだと加藤さんは話します。
松井先生はこのTRUSTLESS LIFEによる社会設計のように、画一的ではなく多層化していく社会において、自分が今どのバージョンにいるのかを俯瞰して考えることが重要だと言われます。これは、社会制度の違いのような大きな話に限ったことではなく、芸術におけるアートワールドの役回りの違いにも言えることであると考えられます。自分は作者でもあると同時に鑑賞者でもある。何かを作るものは常に何かを鑑賞することで想像を生み出し、作品もさまざまな他者や環境、メディアに影響されて常に変化していく。そしてアートワールドの世界から拡張すれば作者である人は鑑賞者であると同時に、日本に住む国民であるかもしれないし、誰かの親でもある。この松井先生のお話を聞いて、全ての物事はある一つの役回りだけを抱えて生きているわけではなく、並行世界に生きているのだと言う当たり前の事実を社会の面ではブロックチェーンが支え、美術の面でNFTがそれを示すことができる可能性があると感じました。
このようにNFTを考えるときに作品個々の良し悪しだけでなく、社会設計の話題にも話題が及びました。秋庭先生からも芸術やアートはそう呼ばれることでその対象を芸術の世界に飲み込んでしまうような性質があると前置きした上で、芸術とは違う側面でNFTを考えてもいいのではないかと言う意見がありました。会場からもNFTは情報の側面から考えていると言う意見もあり、NFTアートにアートという言葉がつくからと言って必ずしも芸術の文脈でそれを議論する必要はないのかもしれません。加藤さんへの質問で、加藤さんのようなポジションの方は今後どう位置付けられるのかという質問もありましたが、この質問に対し、自身も自分はアーティストなのかエンジニアなのかわからない、自分はアクティビストだというようなお話がありました。このように既存の芸術的定義に収まらないアート作品が数多く産まれていく中で、アートや芸術の言葉の意味を考え直す必要もありそうです。
オルタナティブな世界としてのNFT
他にも現在のNFTアートには著作権に対する保護や対応が遅れているのではないか、そしてそう言った現状をどう考えているのかと言う質問がありました。これに対して松井先生はいき過ぎた著作権保護によって音楽のリミックスが発表できないと言った事例をあげ、これからのNFTアートは過剰に著作権の保護を訴えるよりも解釈していくこと、そして過去からの引用を行っていくことにより寛容であるようなコミュニティであるべきだと語られました。伊村先生からも現状NFTアートには作品それぞれに著作権を与え、それをキュレーションするオーガナイザー的存在がいないからこそ、良くも悪くも既存のアート市場にはない多様性が担保されていると指摘されました。作品を含め、全ての人の思考に過去からの参照がないものはありません。このままNFTアートが発展すればいずれかは管理者のような存在が現れる可能性はありますが、松井先生のお話もふくめ、現状、音楽の世界におけるレーベルによる著作権保護によるローファイの規制など、世界的に著作権保護の動きが加速していく中で、このような問題は今こそ考えていく必要があります。この議論に対し、加藤さんからユニークな形態のNFTとして、 Lootという設定や断片的な物語のみが設定されていてその内容についてはユーザーがボトムアップ式に考えていくNFT作品をご紹介されました。このプロジェクトではプロジェクト上にあるアイテムリストを買うことができるという機能のみがついており、具体的なゲームルールは存在しません。ユーザーは手に入れたアイテムを元に独自に新たな作品を作り出していくのです。この作品は、誰もが作り手になれると同時に読み手になることができるというNFTならではの利点を最大限に生かした、作品の著作権に関わる問題に対する新しい発想方法を示しています。この作品のようにNFTが今後、世界に対しオルタナティブな環境をいかに提供できるかに注目が集まります。
終わりに
今回のディスカッションでは一貫した一つの議題についてひたすら議論を掘り深めていくというよりも、会場からの質問を通して様々な議題がいくつも産まれた多層的な議論になりました。これは、NFTアートをアートの文脈から必ずしも考える必要がないという話があったように、NFT自体が様々な特質を内包するものであるからです。また、それと同時にNFTアートに固有な特質であると思われた数々の物事も歴史を紐解いてみれば、過去から受け継いできた文脈上にNFTアートがあるということがわかりました。決して特異点的に存在するものではなく、我々が過去から積み上げ、そして未来へと繋がっていく長い歴史の中の連続するひとつの点としてNFTは存在するのだと再認識させられるディスカッションでした。議題こそ多岐に渡ったものの、共通して何度も表に出てきた概念があります。それは、並行世界である現実社会を俯瞰的に考えること、DJ的な時系列を含む作品の循環の重要性です。芸術に限らず社会に関わるとき、人は自分の所属する領域、それから生きる時代の文脈に大きく影響されます。それは決して悪いことではなく、自身のルーツとして大切にすべきですが、それに囚われすぎると一面的な考え方でしか考えることができなくなるという側面があります。ディスカッションの最後にGenerativemasksの作者、高尾俊介さんから、Generativemasksを作りコミュニティが出来上がっていく過程で作者と鑑賞者、作品との関係が自分の中で今までとは違うものになりつつあることを感じた、というコメントをいただきました。ブロックチェーン技術の特性ゆえにオーソライザーがいないことで一対一でない多層的なアートワールドを認識しやすい現在のNFTのあり方は、時間も含めた俯瞰的な視点を私たちに改めて与えてくれるとも捉えられます。過去との対話も含めた多層的な視点を通して、芸術や社会を捉え、構築することの可能性を感じるディスカッションでした。また、NFTをアートの文脈で話すべきかどうか?という議題でも考えさせられた通り、アートや芸術という言葉が持つ力はとても強力で、芸術と名がつくことで多くのものを弾き出してしまうことがあることも再認識させられました。私たちはこれから生まれる数々の表現に対して、芸術とは異なる新しい言葉を生み出さなければならないのかもしれません。(執筆:市川慧)